前記事の続き。第二次大戦後のドイツは、日本と対照的に、徹底的にナチスを否定し、二度とファシズムがおきないように国をあげて努力したことで有名です。ではなぜ、日本は政府だけでなく国民も、今なお戦争の加害責任を認めず、反省しようとしていないのでしょう。
最大の理由は、戦後の日本はアメリカに従属を誓い、その指令の下、元戦犯にこの国を委ねてしまったからです。しかし終戦直後の事情はドイツでも同じで、人々は国家の戦争犯罪は自分には無関係として、問題を直視しようとしなかったようです。違うのは、戦後のサバイバル期を過ぎると、国民はニュールンベルグ裁判などを通じ、否応なく「ナチスがやったこと」を知るに至り、そこから深い反省が生まれ、事実を明らかにし、平和を求める運動が起き、それが非ナチ化法などの制定につながったことです。もちろんその後の経過は必ずしも順風満帆ではなかったとはいえ、「知識」が社会を変えたのは事実です。
翻って、日本人は今に至るまで、歴史を含む戦争の実態について無知のままです。それは戦争の実行者・目撃者の軍人・軍属、占領移民の完全な沈黙と、政府・メディア・学界のプロパガンダによる誤報道、そして「平和憲法」を飾って実際は軍国主義を推し進める戦犯政府の意図するところです。日本政府が中ロを仮想敵に戦争準備をしていることは隠しようがなく、中ロから日本政府は軍国主義と完全決別を 中ロ共同声明が出されているほどです。日本人が中国で本当に何をやったかを知るには、加害に加担した人々から聞くのが最もわかりやすい。お勧めしたいのは、下の 『日本老兵』。8名の元日本兵のインタビューのダイジェスト版。10分ほどなのでぜひ見て下さい(子どもには勧めません)。
敗戦時、満州にいた皇軍の兵士らは、侵攻してきたソ連軍の捕虜となり、シベリアで五年間にわたる過酷な捕虜生活を強いられました(ソ連への賠償として労働力として兵を提供する密約があった)。この動画は、その後、中国遼寧省の「撫順戦犯管理所」に移送され、死刑を覚悟していた戦犯らのとまどいから始まります。戦犯管理所が彼らに提供したのは、思いもしなかった暖かい人間的な扱いと、「考える」時間、「学ぶ」機会でした。非人間的な使いを受け続けた人は殺戮や放火など非人間的行為を犯しても平気になります。当時、組織的に殺人マシーンに仕立て上げられていた皇軍兵士らは、この戦犯管理所で人間性を取り戻し、自分たちが犯した非人間的行為の重さをを認識するに至ったのです(「認罪」と言います)。そして、撫順と太原にいた約一千人の戦犯は、二年にわたる審査後、ほとんどが起訴免除、即時釈放と決定され(起訴は45名)、帰国が許されました。
しかし、話はここでは終わりません。帰国した彼らを待っていたのは、レッドパージ初め、組織的な歴史否定と改ざん、そして好戦主義が台頭する社会でした。戦犯管理所の帰国者は、公安(元特高)の監視や尾行の対象となり、「アカ」「中共の洗脳組」と呼ばれて就職も難しく、多難な時期が続いたのです。それでも彼らは「中国帰還者連絡会」を設立し、「反戦平和運動」、「日中友好運動」を進め、それが日中平和友好条約(1978)などに結実したのです。下はその運動を担ったお二人のインタビュー。90代にして非常に冷静、客観的な見方を維持できているところが素晴らしい。日本語の部分が多いので、ぜひご覧ください。
第三集の繪鳩さんは知り合いで、私が鎌倉にいた頃、何回もお会いして話をうかがった方です。彼は管理所の話になると本当によく泣かれ、こちらもついもらい泣きすることがあったのでうが、この動画はその部分を省略しているのかもしれません・・・私も何らかの形で彼の意思をついでゆきたいと思います。2025.9.15